読む「れもんらいふデザイン塾」vol.18


あっという間でしたね。
10月にはじまり、「とうとうこの日が来たか」という。

僕が生きてきた流れを一つの例として、それをみなさん自身が自分の人生に置き換えてもらえたら、と思います。

「やりたいことに向かっているヒントになれば」と───


第4期れもんらいふデザイン塾、最終講義。
講師は塾長の千原徹也さん。

千原さんにはじめてインタビューした時のことを今でも覚えている。
その時、千原さんは僕に「〝誰と出会ったか〟が人生だ」と言った。

以前、死にかけた体験をしたんですね。

その時に走馬灯のように、バーッと人生を振り返るのかと思ったらそうじゃなかった。
僕が見たのは、出会った人が全員出てきた───今までの人生で出会ったみんなが。

その時、「誰と出会ったかが人生なのかも」と思ったんです。

(〝きゅーと〟と〝きょーき〟)

〝千原徹也〟を構成するものは、幾千もの出会いの積み重ねだ。
出会いはいつだって物語を孕んでいる。
一人のクリエイターの歩んできた道を、あらゆる出会いを元に紐解いていく。

〝千原徹也〟に影響を与えた人物を紹介しながら、千原さんのクリエイターとしての考え方を体験する。

最も千原さんらしい、伝え方。
この講義には数えきれないほどの宝物が散りばめられている。
何度聞き直しても、新しい発見がある。

それでは、奇跡のような120分の、ほんの一部を。


生きていく上での財産は〝出会い〟だと思います。

仕事やお金も大切ですが、僕はいろいろな人に支えられてここまできました。


憧れ

憧れてきた存在。
千原さんの原風景。

空想における「憧れとの対話」によって、千原少年は〝自分の中の宇宙〟を豊かにしていく。

藤子不二雄

僕が生まれて、最初に「おもしろい」と思ったのは藤子不二雄先生のマンガでした。
幼稚園の頃から月に一度、母に本屋へ連れて行ってもらいマンガを買ってもらっていました。
絵のタッチが好きで、上からトレースしてキャラクターを描いたのを覚えています。

藤子先生の代表作は『ドラえもん』や『パーマン』なのですが、中にはSF短編集があって───SFはサイエンスフィクションではなく「すこし、ふしぎ」の略です。
最後は地球に一人っきりになってしまったりするようなシリアスな内容の作品集がありました。

あのキュートなタッチで、ブラックユーモアを描いている。
基本的に子どもは、「絵がかわいい」というところから入るのですが、このシリーズで僕は「物語のおもしろさ」に興味を抱きました。
まるで〝大人のマンガ〟を読んでいる感覚です。

このSF短編集は手塚治虫先生の影響だと想像します。
『火の鳥』を描いているイメージです。

手塚先生がトキワ荘を出た後に、上京してきた二人がそこに入った。
二人にとって〝手塚治虫〟は憧れの存在でした。
僕も藤子先生の源泉を遡るようにして手塚先生へ辿り着き、『火の鳥』にも影響を受けました。

SF短編集にも『火の鳥』にも共通して映画的なおもしろさがあって。
マンガを読んでいるというより、映画を観ているような感覚でした。

脳みその中で「映画になったらどうなるんだろう?」と切り替えながら読んでいた記憶があります。

スティーヴン・スピルバーグ

小学生になると映画に興味を持ちはじめます。
中でもスティーヴン・スピルバーグは僕にとって大きな存在でした。
「スピルバーグ製作総指揮」というだけで映画が大ヒットする。
『バックトゥザフューチャー』や『インディージョーンズ』など、親に「絶対に観たい」とお願いして映画館へ連れて行ってもらっていました。

そこで必ずパンフレットを買ってもらうんですね。
パンフレットを隈なく読むと、映画のことに詳しくなります。
他の作品のことを知ることができたり、そこから派生してプロデューサーの名前やそこに関わっているクリエイターの名前を覚えていった。
「このクリエイターのAの作品とBの作品はスピルバーグさんと一緒につくったものなんだ」とかね。

そのようにしてピープルツリーを脳みその中につくっていった。


『犬神家の一族』は何十回も観ているのですが、
何十回も観ながら、その数だけ確認をする───


千原徹也の本質

千原さんには常に相反する2つの人格が同居している。

「きゅーと(cute)」と「きょーき(狂気)」
「ポップ」と「偏愛」
「大衆性」と「芸術性」

バニラとチョコレートのソフトクリームのように、それらが互いに混じり合って、一つの世界観を生み出す。
それが千原さんのオリジナリティであり、不思議な魅力。

千原さんが市川崑監督の映画『犬神家の一族』について語った場面で、その答えが出た。

一般的に大衆映画───つまり、エンターテイメント作品は多くの人に見てもらうことが重要で、そうなると自分の考えよりも、「世の中の人がどう思うか」ということを重きに置くようになる。
そうなると芸術性がどんどん下がっていくのですが、市川監督の『犬神家の一族』は、一般の人が「おもしろい」と思える要素がありつつ、同時に芸術性も高い作品なんです。

書体を全て市川監督がご自身で作ったり、映画の中で意図的にピンボケのシーンを入れたり、0コンマ何秒にサブリミナルで恐怖を刷り込むシーンを挟んだり、突然モノトーンになったり、スチールのコマ送りが展開されたり…
2時間40分という長編映画なのですが、切り取っていくとデザインのアイディアになるような市川崑演出が目白押しです。

「エンターテイメント=自分の作品性や芸術性を殺す」という図式ではなく、みんながおもしろいと思えることを考えながら、自分がやりたいことをしっかり入れていくということをこの作品で学びました。

〝千原徹也〟の本質はここにある。


市川崑

市川崑監督の映画を好きになった時、「大人になった」と感じました。
スピルバーグまではなんとなく子どもの記憶なんですね。
市川崑監督の作品と出会った以降の人生は〝大人の選択〟をしている気がします。

市川崑監督の特質であり、僕が魅力に感じている部分は、「全てのシーンの構図が平面的だ」ということです。
一般的に映画的な構図は斜めから撮って、立体的にシーンを描いていきます。

市川監督は正面から狙って撮る。
そうすることでそこにデザイン的な構図が生まれる。
スタンリー・キューブリックや最近だとウェス・アンダーソンもそうですね。
そのデザイン性に惹かれました。
作品に出演している俳優さんにハマるのではなく、「自分は作り手に感情移入しているのだ」ということをこの時感じました。

『犬神家の一族』

何度もリメイクされている有名な作品です。
市川崑監督の映画は50~60年代のモノクロの時代に、光と闇を巧みに演出し、コントラストの効果を活かした映像の撮り方をしました。

光が当たっている面を飛ばして、反対側を真っ黒にさせる───モノクロ時代はそういった表現が効果的だったのかもしれませんが、それがカラーになってからも生きている。

それまでは『黒い十人の女』など、市川監督の奥さまである和田夏十夫人が脚本を書き、秀逸なブラックユーモアを描き、スタイリッシュな作品を撮影していました。
和田夏十夫人が他界した後、市川監督は自分が何を撮ればいいのか分からなくなっていた。
その頃、角川書店が事業として映画制作をはじめました。
その第一弾が『犬神家の一族』───社長の角川春樹さんは市川監督を抜擢した。

今までは芸術性の高い作品を撮っていたのですが、この時に市川監督ははじめて、〝エンターテイメント作品〟と呼ばれるものを撮った。

僕の人生において、仕事の向き合い方の原点はここにあります。

伊丹十三・小西康陽

同時期に伊丹十三監督にも夢中になりました。

『マルサの女』『ミンボーの女』『スーパーの女』などの女シリーズ。
伊丹監督が亡くなり幾星霜、後にテレビでも放送されていましたが、劇場公開されていた時期にリアルタイムで、映画館で見ることができたのは僕の人生における財産です。

伊丹監督もタイポグラフィや構図のおもしろさはもちろんのこと、政治的にも踏み込んだ内容の作品づくりにも刺激を受けました。

伊丹監督は放送作家でもあり、また文筆家でもあったので、彼の関わった昔の番組をDVDで見たり、エッセイを読んだりしていました。
〝伊丹十三〟に詳しくなればなるほど、自分の世界が広がっていくような感覚がありました。
「勉強している」という意識でもなかったのですが、伊丹監督のことを知れば知るほど世の中について学ぶことにつながっていったように思います。

絵も巧いのですが、文章がとてもいい。
言葉遣いや言い回し、それらが今、僕が文章を書く時に生きています。

文章の巧さでいうと、小西康陽さんもとても魅力的でした。
美しく、エレガントな文章をお書きになります。

小西さんはピチカート・ファイヴというグループで音楽をされていて。
音楽とファッションと+αになる要素とのカルチャーミックスの音楽チームでした。

ピチカート・ファイヴを追うことで、60年代のアメリカのソフトロック、バート・バカラックなどが音楽の教養として入ってきた。
タイポグラフィやデザイン、そういうものがおもしろいと思いはじめたのも、ピチカート・ファイヴのアートワークによる影響です。
カメラマン、ヘアメイクなど、作り手側に強く興味を抱きました。


藤子先生、手塚先生が好きな頃は「漫画家になりたい」。
スピルバーグまでは「映画監督になりたい」。
市川監督、伊丹監督、小西康陽さんの流れで、デザインへ興味が出てきた。


ソウルバス

そして、タイポグラフィと映画の流れでソウルバスという人物に辿り着きます。
彼は映画のオープニングタイトルをつくっている人で、その肩書は〝グラフィックデザイナー〟でした。
その職業に憧れたのは紛れもなく彼の影響でした。

古くは『ウエストサイド物語』の映画のタイトル───ミュージカルはもう数えきれないほど公演しているのですがソウルバスがつくったロゴは変わっていません。
映画のタイトルだけでなく『ミノルタ』というカメラの会社の企業ロゴも手掛けています。

佐藤可士和

2000年のADC年鑑に掲載されていた佐藤可士和さんの作品を見て衝撃を受けました。

それまでの僕は、京都に住み、大阪のデザイン会社でマクドナルドのクーポンをつくっていました。

ボーナスもよかったですし、京都での生活も「クリエイティブだ」と感じていました。
ライブハウスのフライヤーを制作したり、古着屋の友人のカタログをつくったり。
マクドナルドのクーポンはライスワーク、京都の友だちとつくるものはライフワーク。

その時まで「自分って何なんだろう?」という疑問もなかった───なかったから、その仕事を5年も続けることができたのだと思いますが。

僕が今まで見てきたアートワークなどにはADC(Art Directors Club)という概念がなかった。

可士和さんの広告を見て、上京することを決めました。

28歳───
2003年に東京へ。

千原徹也のつくり方

カルチャー×マス広告×ファッション

いくつかのデザイン会社を渡り歩き、経験を積んでいった千原さん。
松本弦人氏の下でカルチャーを学び、博報堂ではマス広告を学んだ。
出会いの中で、あらゆるものを吸収し、オリジナリティを生み出していった。
それはまるで能力を掛け算していくかのように。

中島知美

博報堂の次にお世話になったSTOIQUEの社長/アートディレクターです。
中島さんはもともと洋服のデザインをされていた方で、とにかくファッションに詳しかった。

正直なところ、STOIQUEに入社した当初、それまで博報堂でマス広告を学んでいた僕にはファッション広告の良さはわかりませんでした。

ファッション広告といえば、モデルが立っていて、そこにロゴが入っているだけ。
コピーもなければ頓智もない。
ただ、一流のカメラマンが一流のモデルを撮っているだけのもの。
ファッション業界の人たちは、毎週パーティにばかり行っていて、いつも同じようなニコパチの写真を撮っている。

そのことが納得できず、職場の仲間と言い合いになったことがあります。

「これのどこがいいの?僕には分からないよ」

僕としてはただのニコパチの写真ではなく、コピーを入れたり、タイポグラフィをおもしろくしたり、いろいろトライアルしたかった。
すると、こう言い返されました。

「逆に、そんなチマチマした作業をして何が楽しいの?」

「パーティもない人生って何が楽しいわけ?」って。
これまで積み重ねてきたものとのギャップに頭を抱えました。

そんな頭でっかちな僕でしたが、中島さんの下で働くにつれて次第にファッションの魅力に惹かれていきました。

STOIQUEのオフィスは、マンションの一室だったのですが廊下が長く、70年代から現代までの歴代のアメリカンVOGUEとフレンチVOGUEが置いてありました。

「ファッションとは何なのか?」
「写真とはどういうことなのか?」

それらのライブラリーを見ながら日々吸収しました。
最初は「勉強している」という感覚で辛かったのですが、途中からファッションのおもしろさに気付きはじめました。

モデルのポージングにしても、〝ただのニコパチ〟ではなく「60年代の、この映画の、このシーンの引用で」のように、いろいろなコンテクストを元にした隠し技が下拵えしてあったり。

今までマス広告にいた時は、〝いかに頓智の利いたものを前に出すか〟ということでしたが、ファッションの場合はそれを隠して〝引き算ってカッコイイでしょ?〟というアプローチで。

学べば、次々とおもしろさに気付いていく。

中島さんには、ファッションの現場へたくさん連れて行ってもらいました。
伊勢丹の広告は毎回ニューヨークで撮影するのですが、当時一番イケてるカメラマンと、一番イケてるスーパーモデルを起用してファッションシュートします。
そこでマリオ・ソレンティやマリオ・テスティーノなど、世界のVOGUEの写真を撮っている一流のフォトグラファーの仕事を目の当たりにします。

その時は、中島さんが今一番イケてるクラブに遊びに行き、今一番イケてるホテルに泊めてくれて、一流のものをたくさん見せてくれる。
それらの体験を通して、ファッションの力やおもしろさを学んでいきました。

中島さんと出会うまでは「カルチャー男子」といいますか。
松本弦人さんのようなカルチャー系デザイナーになりたかったり、または博報堂ではでマス広告をつくりたいと思っていたり。
「グラフィックデザイナーになりたい」という想いではありましたが、具体的に〝自分がやりたいこと〟に対して不明瞭でした。

「自分はファッションの切り口がいいんじゃないか?」

グラフィックデザイナーの中には中島さんのようなファッションに特化した人はいませんでした。
この切り口だとライバルはいない。
僕のグラフィックデザイナーとしての個性を見出してくれたのはSTOIQUEです。

菊地凛子

「ホームページをつくってください」

凛子さんのその一言が、僕の現在につながる大きな一歩でした。

「ここでおもしろいものをつくらなければいけない」

人生の中には何回かそう思う瞬間があります。
人生ではじめて「ここは自分を出さなきゃいけない」という意識で取り組んだ瞬間だと思います。

中島さんの下で培ったファッション性、ずっと自分が好きだったカルチャーの要素を組み合わせてつくりました。
今、僕が持っているものを全て出し切って、自腹でニューヨークまで発ち、菊地凛子さん本人の前でプレゼンテーションしました。

その場には、凛子さんの他にも著名なニューヨークのクリエイターも数名いました。
プレゼンテーションを終えた後、そこにいたメンバーと食事に行きました。
そこで、とあるクリエイターが「すごくいいデザインだった」と褒めてくれました。

彼との会話の中で、「自分は日本では、とある会社の中でアートディレクターとして働いている」と伝えました。
すると彼からこう言われました。

「ニューヨークでは会社員はクリエイターと呼びません。日本は〝アートディレクター〟と名乗りながら会社員をしている人はたくさんいるのですか?」

その言葉に打ちのめされました。
クリエイターとして会社員であることを否定された。
日本では電通や博報堂にもアートディレクターがいるので、僕の中ではそれが普通のことだと思っていました。

自分がつくったものがそのままクライアントから評価されてお金になる。
それがニューヨークスタイルのクリエイティブだ、と。

日本に帰る飛行機の中で「会社を辞める」ということを決意していました。

そして、2011年───
「れもんらいふ」を立ち上げました。

まもるべきもの


「まもらなければいけないものがある」ということは、とても幸せなこと。
自分だけの世界で生きていくより、誰かと共有していくことこそ人生なんじゃないかって。


会社をつくるということは、まもらなければいけないことがたくさん出てきます。
僕の人生ではこの三段階に分かれます。

《まもられていたころ》

この頃は、親に育ててもらっていますから、自分のことだけを考えればいい。
まもるものは何もない。

《修行時代》

まだ給料も少ないし、自分の生活自体に納得できていない。
夢を叶えることなんてもってのほか。
この頃は僕を東京へ送り出してくれたお母さんや弟のことも考えて仕送りしていました。
「僕」だけでなく「母」と「弟」というものが増える。

《れもんらいふ》

会社をつくると儲かるし、「お金が自由になるからいいのかなぁ」と思ったら、楽しいことばかりではなく、まもらなければいけないものがたくさん増えていきます。

「自分・母・弟」+「家族」+「会社」+「社員」

好きなことをだけをやってばかりだとお金がなくなって、会社が潰れてしまう。
会社もまもらなくちゃいけないし、そこで働く人たちの人生もある。
その人たちにも、「自分」や「家族」を助けるための分くらいはこちらも用意しなくちゃいけない。

お金の問題だけじゃない。
技術を教えることも必要だし、自分で稼ぐことができるように育てることも必要だし、モチベーションも高める必要がある。
やらなければいけないことは増えていく一方です。

「守らなければいけないもの」の存在は、生きていく意味を与えてくれます。
それが〝生きがい〟となっていく。

「世界は繋がっている」

憧れとの対話によって、千原少年は〝自分の中の宇宙〟を豊かにしていった。

それは、自分の内面へと潜っていくこと。
しかし、ある時、内面の世界───〝自分の中の宇宙〟が外界へと繋がっていることに気付く。
実際に行動を起こして、現実世界でのプレイヤーになる。

千原さんは、そのことを僕たちに教えてくれている。

人生は映画である。


エドさんの言葉がきっかけで、僕は前へと進みました。

人生において「〝桑田佳祐〟に辿り着く」ということをやってみよう。
これが成功すれば、れもんらいふを辞めてもいい。
あの時、それくらいの気持ちで営業に行きました。

それが叶えば、もう目標はないのだから。


みなさんには「自分が刺激を受けた人には、いつか出会って欲しい」と思っています。
そこに辿り着くということは、人生の中でとても大事なことだと思います。
〝何のためにグラフィックデザイナーになったのか?〟
そういうことの答えを知ったような気がします。

桑田佳祐

一番好きな人です。
『KAMAKURA』───僕が小学校5年生の時にはじめて買ったレコードです。
「音楽ってすごい」ということを知りました。

「いつか、この人と仕事がしたい」

ある日、イラストレーターのエドツワキさんと蕎麦屋で蕎麦をすすりながら、こんな話をしていました。

「今からもう楽しみなんですけど、2018年はサザンオールスターズ40周年。一曲目はこの曲じゃないかな?」

その時、エドさんにこう言われました。

「千原くんさ、グラフィックデザイナーとしてこれだけやっていて、一ファンでいいの?」

その言葉に、火照っていた身体が冷めていくのを感じました。

「自分がその40周年をやらなきゃいけないんじゃない?」

サザンについてこれほど熱く語っていたにも関わらず、その発想は全くなかった。
自分が〝桑田佳祐〟の仕事をするなんておこがまし過ぎて、辿り着ける場所ではないと思っていた。

2016年10月───自分の足でアミューズへと営業に行きました。
僕は2時間、サザン愛をぶつけました。
相手は桑田さんを20年間担当されている方で、もちろん誰よりも桑田さんに詳しい方です。
その人に「君、すごいね」と言ってもらえた。

「もし、40周年の仕事があれば、君と一緒に仕事ができるかもしれない」

2017年、僕は『がらくた』のCDジャケットをアートディレクションしました。

〝桑田佳祐〟は僕にとって神様でした。
───神様というのは、死ぬまで出会えない存在。

神様にはじめて会った時、人生の走馬灯のようなものを見ました。

「ここに辿り着くために、僕はやっていたんだ」

撮影している間は夢を見ているような感じで。

最後に桑田さんに「よかったよ、ありがとう」と握手をしてもらいました。
そういう経験ができるというのは、人生において限られたことです。

「誰と、何を、したか」

それが、れもんらいふをやり続ける力になっています。

そしてこれから

僕には5歳下の弟がいます。
彼は知的障害を持っていて、この写真の頃には既に障害者の認定を受けています。
現在、彼は39歳なのですが、小学校1、2年生くらいの知能だと言われています。

会話はある程度、成立するのですが、例えばお金の計算などは難しかったりします。
自分のことを論理立てて発言したり、そういうことが一切できません。

父と母は離婚していて、僕たちは母と弟と三人で生きてきました。

「この二人の生活を楽にしたい」

今日、話してきたことの中で、一番の支えはそこですね。
彼と一緒に過ごしていて、「〝生きがい〟とは何なのか?」ということを日々考えます。
普通ならば「お給料をもらったら、あの服を買おう」とか「あの映画を観に行きたい」とか「もう少しいい場所に引っ越したい」───欲はたくさんあるので、それがベースで生活が成り立っていると思うのですが、彼にはそういうものが全くありません。

障害者の子には、そういう発想はないんですね。
何をして生きていけばいいのか分からないんです。
「何もない」ということは本当に辛い。
給料をもらっても、それがいいことなのか、悪いことなのかさえ分かっていない。

彼を見ていると、「生きる」ということはとてもシンプルなことだと気付かされます。

「今日一日、笑顔で終われたね」
「明日、一緒に映画を観ようね」

僕と彼が会話をする。
そうやって楽しく笑うことが───「生きている」ということだけが生きがいなんです。
その姿を見ていることが僕にとって大きな学びになっています。

28歳まで東京へ出る勇気がなかったことも。
学生時代にカルチャーが好きだったけれど、自分の将来と直結できなかったことも。
大きな理由は、僕にとって大切な───まもるべき二人の存在。

母が毎晩徹夜で洋裁をして、僕と弟を一人で育ててくれました。
「その姿を見たくない」と思い、高校を卒業した時、勝手に就職口を決めて家に帰ったことがあります。

一早く働きに出て母親を楽にさせることが僕の人生だと思っていました。
すると母親は泣きながら僕に「働かないでくれ」と言いました。

「私を助けるために働くということだけはやめて。私は一生後悔する。あなたの人生だから、あなたのやりたいことをやってくれないと、私はあなたを産んだ意味がない。」

そこから僕は就職することを止め、大学に進学しました。
その時、僕が幼い頃から母に「徹也は絵がうまいんだ」と口癖のように言われていたことを思い出しました。
僕自身は母が言うほど絵がうまいとは思っていませんでした。

「お母さんは、僕に絵を描く人になって欲しかったのかな?」

具体的に「何かになれ」とは言われなかったのですが、「絵が上手なんだから、あなたは」ということは、「そうなってほしい」という意味だったのかもしれない。
その時、はじめて気付きました。

「クリエイティブを仕事にしたい」と思ったのは、母親の言葉がきっかけです。

れもんらいふデザイン塾をはじめて、塾生のみんなからいろいろ話を聞かせてもらいます。
すると、明確な夢を持っている人というのは意外と少ないことに気付かされます。
「これだ」という夢を持っている人はすごくラッキーなんですよ。

夢を持っていない人が、どうしていけばいいのかを考えることが、これからの課題だと思っています。

今日みなさんが、僕の話を聞いて、何のヒントを得たかは分かりません。

あの頃の僕は、自分の夢が見つからなかったので「母親の〝なって欲しい人〟になる」ということを夢にしました。
だから、自分の夢が分からない人は、身近な人に聞いてみるといいかもしれません。
その中に、意外なヒントがあるかもしれません。

まもるものがあったり、やりたいことがあったりすることが人生に大きな影響を与えます。
そして、それは生きていく意味となっていく。

れもんらいふデザイン塾でそういうものを少しでも感じて、何かを掴んでもらえたらいいな───そう思って、今日の話にしました。

みなさん、どうもありがとうございます。


こうして最後の講義が終わった。

僕はれもんらいふデザイン塾に来て、少し大人になったし、それから少し子どもになった。

いろんな人の話を聴いた。
次は、自分のことを話したくなった。

自分の物語を話せる選択を、そして、生き方を。

講義が終わった後、千原さんへ塾生たちから花束と贈り物が渡された。

それから一人ひとり、夢を語った。
僕たちはきっと、この日のことをずっと忘れない。

千原さん、どうもありがとうございます。

《塾長:千原徹也》
デザインオフィス「株式会社れもんらいふ」代表。広告、ファッションブランディング、CDジャケット、装丁、雑誌エディトリアル、WEB、映像など、デザインするジャンルは様々。京都「れもんらいふデザイン塾」の開催、東京応援ロゴ「キストーキョー」デザインなどグラフィックの世界だけでなく活動の幅を広げている。
最近では「勝手にサザンDAY」の発案、運営などデザイン以外のプロジェクトも手掛ける。

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